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東京地方裁判所 平成2年(ワ)4034号 判決

原告 波多野幸雄

〈ほか一名〉

右両名訴訟代理人弁護士 関澤潤

被告 株式会社新榮堂

右代表者代表取締役 船橋新一

右訴訟代理人弁護士 立野輝二

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

一(主位的請求)

被告は、原告らに対し、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を明け渡し、かつ、平成二年四月一〇日から右建物の明渡し済みまで一か月六二万四〇〇〇円の割合による金員を支払え。

二(予備的請求)

被告は、原告らに対し、原告らから二〇〇〇万円の支払いを受けるのと引換えに、本件建物を明け渡し、かつ、平成三年九月七日から右建物の明渡し済みまで一か月金六二万四〇〇〇円の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、本件建物の賃貸人である原告波多野幸雄(以下「原告幸雄」という。)同波多野惠子(以下「原告惠子」という。)が、その賃借人である被告に対し、主位的に、用法違反及び無断増改築による解除により右賃貸借契約が終了したとして、本件建物の明渡しと右解除による終了の日の翌日から本件建物の明渡し済みまでの賃料相当使用損害金の支払を求め、予備的に、正当事由に基づく解約申入れにより右賃貸借契約が終了したとして、本件建物の明渡しと右解約申入れによる終了の日の後の日である平成三年九月七日から本件建物の明渡し済みまでの賃料相当使用損害金の支払いを求めた事案である。

一  争いのない事実

1  波多野留吉(以下、「留吉」という。)は、昭和四六年三月三一日ころ、被告に対し、本件建物を賃貸した(以下、「本件賃貸借契約」という。)

2  留吉と被告は、右当事者間の賃料増額請求訴訟(東京簡易裁判所昭和六二年(ハ)第七五七七号事件)の裁判上の和解において、昭和六二年一〇月一六日、本件建物の賃貸借契約を、昭和六一年一二月一日に遡り、期間 昭和六一年一二月一日から昭和六三年一一月三〇日まで、賃料 月額二八万七五〇〇円、とする旨合意した。

右和解には、特約条項として、「被告は、本件建物を現状のまま印刷工場として使用するものとし、他の目的に使用してはならない。」「被告は、本件建物につき、その賃貸借契約の本旨に従い、改造、変更その他の大修繕をしない。」旨の記載があった。

3  原告幸雄は、留吉を代理して、昭和六三年一一月ころ、被告に対し、同年一二月一日以降の本件建物の賃料を月額六二万四〇〇〇円に増額する旨の意思表示をした。

4  留吉は、平成元年二月一七日死亡し、その養子である原告幸雄、その娘である同惠子が本件建物を共同相続し、本件建物の賃貸人たる地位を承継した。

5  被告は、平成元年一二月ころ、本件建物を、従前の活版印刷の工場兼事務所から写真印刷のための製版の作業場兼事務所に変更した。

6  被告は、そのころ、本件建物につき、次の工事をした(以下、「本件工事」という。)。

(1) 玄関の木製戸をアルミサッシ戸に変更した。

(2) 一階の床にコンクリートを流して平らにした(ただし、その態様については争いがある。)。

(3) 一階に天井を設けた(同前)。

(4) 二階に新たに部屋を作った(同前)。

7  原告らは、平成二年三月二七日、被告に対し、原状回復するよう催告した。

8  原告らは、平成二年四月九日に到達した書面で、被告に対し、本件建物の無断増改築を理由に本件賃貸借契約を解除する旨の意思表示をした。

9  原告らは、平成二年九月六日に到達した書面で、被告に対し、立退料として二〇〇〇万円を支払う意思のあることを表示して、本件賃貸借契約の解約を申し入れた。

二  争点

1  被告が本件建物を活版印刷の工場から写真印刷のための製版の作業場に変更したことは、本件賃貸借契約の用法違反になるか。

2  被告が本件工事をしたことは、本件賃貸借契約の増改築禁止特約違反になるか。

3  右1又は2が認められる場合、これらに信頼関係を破壊しない特段の事情があるか。

4  原告らのした解約申入れには正当事由があるか。

第三争点に対する判断

一  争点1(用法違反)について

1  《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

(1) 留吉は、昭和二四年ころ本件建物(ただし、昭和四四年に南側が取り壊されて本件建物となる以前の全体建物)を建築して以来、同所で活版印刷業を営んでいた。

被告は、昭和四二年九月、留吉が代表取締役をする新光社製版株式会社(以下、「新光社製版」という。)との間で業務提携契約を結び、同社から本件建物(ただし、同前)内に設置された活版印刷機と活版活字等の設備を賃借して、本件建物内で活版印刷業を開始した。

新光社製版は、昭和四四年、被告から、本件建物のうち南側約半分の明渡しを受けてこれを留吉に返還し、留吉、その妻静江及び原告惠子は、右返還された建物の敷地上に五階建のビル(以下、「ハタノビル」という。)を建築した。

昭和四六年、新光社製版と被告は先の業務提携契約を終了させ、留吉は、同年三月三一日ころ、新たに被告に対し、右のとおり縮小された本件建物を賃貸した(右賃貸借契約がなされたことは当事者間に争いがない。)。

以来、被告は本件建物を、一貫して活版印刷の工場兼事務所として使用していた。

(2) 被告は、本件建物の他に本社工場があり、本件建物での仕事は、代表取締役の一人である城戸教雄(以下、「城戸」という。)を中心になされた。

城戸は、昭和六二年ころには、原告幸雄に対し、活版印刷業は衰退の一途であり、受注がなくなり次第仕事をやめたい、本件建物は古くほこりも落ちるし土台もしっかりしていないから写真製版はできない旨たびたび洩らしており、いつ明けてくれるかとの原告幸雄の問いに対しては、職人も高齢で近く定年になるが補充も困難である旨告げていた。実際にも、当時本件建物で働いていたのは相当高齢の職人二人だけであった。

そのため、原告幸雄は、被告は本件建物で写真印刷をする計画はなく、また本件建物は改装しない限り写真印刷には不向きであるから、本件和解において本件建物の使用目的を印刷工場に限り、併せて右建物の改造、変更等を禁止しておけば、近い将来、被告は活版印刷業を継続することができなくなって本件建物を明け渡すであろうと考え、留吉から任され同人に代わって本件和解の交渉をする際、城戸に対し、従前の賃貸借契約書には存在しないこれらの特約を本件和解の条項に盛り込むよう提案した。

被告としては、写真印刷に転向するには多額の資金が必要である上、技術の違いから古い職人を使うことができなくなると考え、当時は写真印刷に転換することを考えてはいなかった。そこで、城戸は、右提案に同意した。

(3) しかし、昭和六三年ころに至り、被告は、得意先から、他の取引先は写真印刷に切り換えているのに被告一社が活版印刷では被告への発注が困難であるとして、写真印刷に転換するよう要請されたことから、止むなく写真印刷に転換することとし、原告らには無断で、前記のとおり、本件建物を写真印刷のための製版の作業場に変更した。

(4) 原告らは、右変更の事実を知って直ちに城戸に対し、異議を述べた。

右に認定した事実によれば、原告幸雄は、本件和解条項に前記の二つの特約を入れることを申し入れることで、留吉を代理して被告に対し、本件建物を写真印刷のための工場にはしない旨を黙示に申し入れ、被告は、右条項を入れることに同意することで、黙示にこれを承諾したと認めるのが相当である。

2  以上の事実によれば、被告が本件建物を写真印刷のための製版の作業場に変更したことは、本件建物を写真印刷のための工場にはしない旨の本件賃貸借契約の特約に違反したと認められる。

二  争点2(増改築禁止特約違反)について

本件工事は、いずれも本件建物の改造又は変更に該当するから、被告が本件工事をしたことは、これをしない旨の特約に違反したと認められる。

三  争点3(信頼関係を破壊しない特段の事情)について

1  《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

(1) 写真印刷の製版作業は、活版印刷作業と比較し、静かで清潔な作業であり、本件建物を製版の作業場として使用すること自体が直ちに原告らに対し、不都合、不利益をもたらすものとはいえない。

また、被告が写真印刷への転換をした平成元年一二月当時、活版印刷から写真印刷への転換は印刷業界の趨勢となっていた。

(2) 本件工事のうち、玄関戸の変更工事は、防犯上も機能上も劣る古い木戸から、これらに優れ、一般的に普及しているアルミサッシ製のものへ変更したものであり、本件建物の価値を高めこそすれ、その保存状況に悪影響を及ぼすものではない。

床にコンクリートを打った点については、本件建物内には従前から相当重い活版印刷の機械が何台か設置されていたことに照らすと、本件建物の床面はもともと土間ではなくコンクリートで覆われていた可能性が強く、そうであるとすれば、被告は、右コンクリート床面のところどころにあった活版印刷機の油をためる穴にコンクリートを流し込んで埋め戻す程度の工事をしたにすぎないことになる。

一階天井工事は、既存のはり等を利用して一階部分作業場の一部にベニヤの吊り天井を吊るしたにすぎず、これを撤去して原状回復することもさほど困難ではない。

二階の部屋工事は、従前倉庫となっていた二階の空間の一部を、ベニヤ板とガラスの引き違い戸を取り付けることで間仕切りをし、ベニヤ板の天井を設けて独立性をもたせた程度の簡易のものにすぎず、これを撤去して原状回復することもさほど困難ではない。

(3) 被告が写真印刷に転換したのは、本件建物の明渡し時期を先に延長する目的で殊更になしたものではなく、前記認定のとおり、得意先からの働き掛けにより止むなくしたものであるところ、本件工事は、本件建物で写真製版の作業をするために、防犯、防塵及び防振動上通常必要とされる範囲内の工事である。

2  右の認定の事実によれば、被告がした写真印刷作業所への用法変更及び本件工事は、その目的、内容及び本件建物に及ぼす影響等を総合すると、いずれも、被告が印刷の仕事を継続していく上でなしたいわば不可避的ともいうべき変更であり、本件建物に恒久的かつ重大な影響を加えるものではないと認められる。

そうすると、これらの行為は、近い将来活版印刷が継続できなくなって本件建物の明渡しを受けることができるであろうとの原告らの期待に反するものではあるが、なお、賃借人としての信頼関係を破壊しない特段の事情があると認めるのが相当である。

したがって、これらの違反を理由とする原告らの債務不履行解除の主張は、結局理由がない。

四  争点2(正当事由)について

1  《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

(1) 原告幸雄は、ハタノビルの五階において、工業用粘着テープ等の販売会社である東京エー・アイ・シー株式会社(以下、「東京エー・アイ・シー」という。)を経営しているが、同所は手狭であり、在庫品の置き場所にも支障を来している。また、本件建物は、JR水道橋駅の南方約四五〇メートルの商業地域という、土地高度利用の可能な位置にありながら、昭和二四年ころ建築された木造建物で、一、二階は被告に賃貸され(賃料及び消費税相当額として、現在月額三一万四六六五円が供託されている。)、三階部分は東京エー・アイ・シーの倉庫として利用されているにすぎない。

そこで、原告らは、被告から本件建物の明渡しを受け、その敷地とハタノビルを取り壊した敷地(いずれも原告らないし波多野静江の所有)を再度一体として、同所に七階建のビルを建て、その一角を東京エー・アイ・シーの事務所兼倉庫にあて、他を事務所として賃貸するなどして有効利用することを計画している。

しかし、ハタノビルの一階から四階までは現在事務所等として他人に賃貸中であるところ、右建替えの計画は、未だこれらの賃借人に話をされてはおらず、賃借人らがこれに協力するか否か全く不明である。

(2) 被告は、東京都千代田区猿楽町に本社工場兼事務所があり、同所で写真印刷をし、本件建物では、一階の作業場に写真製版の機械と数個の作業台を、二階事務室にアイテックカメラ、システム乾燥機、水洗機、現像機、暗室反転プリンター及びワープロ、パソコン等を置いて、もっぱら本社で印刷をするための写真製版の製作作業をなしている。現在本件建物で働く従業員は、神田地区在住者を中心に七人おり、五〇代以上が多い。また、被告は、写真印刷に転換するため約七〇〇〇万円をかけて機械等を購入した。

なお、被告の代表取締役の一人でその実質上のオーナーである船橋新一及びその親族で大株主の船橋喜一郎は、東京都千代田区神田佐久間町三丁目に土地を所有し、同所に工場建物及び五階建ビルの一二室の区分所有権(事務所倉庫一室、事務所八室、車庫一室、居宅二室)を有しているが、これらの使用状態は明らかでない。

(3) 本件建物は、建築以来既に四〇年余りを経過し、モルタル塗りの外壁が劣化して落下する虞れがあり、土台も腐食している部分がある。また、防火地区にありながら防火構造ではなく、避難設備、換気、照明設備の不備等の問題点がある。しかし、本件建物の内部には鉄骨の支柱が組み込まれ一定の強度は保たれており、右劣化部分等も相当の修繕、補強により修復することが不可能ではない。

2  右に認定した事実によれば、原告らが本件建物の明渡しを必要とする理由は、結局、これを取り壊した上で、その敷地上に、隣のハタノビルを取り壊した敷地と一体としてビルを新築することにあると認められるところ、右建築計画は未ださほど具体化しているとはいえない。他方、被告は本件建物を右のとおり作業場兼事務所として現に使用しており、写真印刷へ転換するため新たな投資をして間もない状態にある。これらの事実に、本件和解が成立した日から今日まで未だ四年余りしか経過していないこと等の事情を総合考量すると、原告らが本件建物の明渡しを受けるべき必要性は被告がこれを使用する必要性に勝るとはにわかに認めることができないというべきである。

また、原告らは被告に対し立退料二〇〇〇万円を支払う用意がある旨表明しているが、立退料の提供は解約申入れの正当事由を補完するものに過ぎないというべきであるところ、現在原告らが本件建物の明渡しを必要とする程度は右の程度にすぎないから、立退料をもってこれを補完すべき場合には当たらないというべきである。

してみると、原告らの本件解約申入れには正当事由の存在を認めることができない。

五  結論

よって、原告らの請求は、主位的、予備的請求ともに、その余の点について判断するまでもなくいずれも理由がない。

(裁判官 畑中芳子)

〈以下省略〉

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